私心のない判断を行う
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最近、盛和塾北大阪支部の「京セラフィロソフィー輪読会」に出席している。盛和塾に入って20年もなるのに社内でフィロソフィー教育もしないでどうするんだという先輩のアドバイスも(半分)聞く形でまずは自分が改めて勉強してみようと思った次第です。とはいえ、京セラ(稲盛)フィロソフィー自体は常に意識して経営を行っているので、実際には当社の経営の仕組み、ビジネスの仕組み、社員の意識は殆どそれに沿ったものになっていて、「勉強しているが現実が付いていっていない」の反対で「社内研修は行っていないが、経営の仕方そのものが稲盛フィロソフィーを体現している」ことになっていると自画自賛?している。
ともあれ、新たな気持ちで輪読会に出席するとそれはそれで勉強になる。前回は、フィロソフィー33番の「私心のない判断を行う」がテーマであった。曰く、「何かを決めようとする時に、少しでも私心が入れば判断がくもり、その結果は間違った方向にいってしまいます。人はとかく、自分の利益になる方に偏った考え方をしてしまいがちです。(中略)私たちは日常の仕事に当たって、自分さえよければという利己心を抑え、人間として正しいか、私心をさしはさんでいないかと、常に自問自答しながらものごとを判断していかなければなりません。」
輪読会の席上では、多くの方が「経営者は自分の欲望を抑えて清く生きていかねばならない。もちろん会社としても儲かるからやる、儲けるためにやるという姿勢は良くない。正しいことを行って「結果的に」高収益になることが理想である(ということを意味している)」という意見が多かった。しかし僕は少し違うと思っている。
(僕が解釈するに)稲盛さんは「私心」自体を否定しているのではない。儲かりたい、よく思われたい楽したいという「私心」のは誰もが全面的に否定することは出来ないし、程度の差はあれそれが仕事のモチベーションになっている人も多いと思う。しかし自分の私心「だけ」を全面に押し出してしまうとどうなるか。社長の贅沢のためだけに働く社員はいないし、その会社の利益にしかならないビジネスに協力したいと思う取引先もないだろう。自分にだけ都合の良い判断をせず、どうすれば皆が協力してくれるだろうと考えれば、自ずと客観的に正しい判断、倫理的で利他的な行動をを取るしかないことが分かるだろう。「あの人は自分の利益だけを考えているのではない。取引先も消費者も、もちろん自社の社員の幸福も含めて成り立つビジネスの仕組み作りを行っているのだ」という評価があって、その人の欲望、能力だけでは出来ないことが、皆の協力のもとに可能になるのだと思う。その結果として、その枠組みの中心にいるその人にとっても十分大きな見返りが出てくる。
従って、「私心のない判断を行う」とは、欲望を抑えなさいという倫理的なことだけを言っているのではない(と思う)。大きなものごとを成就させるためには(そして結果的に自分も成功するためには)、最初から私心に曇った気持ちで考えてはいけないということだ。つまり、「ビジネスモデルがうまくいくには、そこに参加する人たちが皆利益を得ることが大切。自社の都合、社長の私欲だけではうまくいきませんよ」という様に理解すればいいんじゃないかと思います。