成果主義
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僕はよく合理主義者の宇宙人と呼ばれることが多いけれど、当社は成果主義は採用していない。その理由は、逆説的に聞こえるかもしれないが、成果主義で解決するには難し過ぎる課題に取り組んでいるからだ。
いわゆる成果主義は、ルールが決まっていて「後は必死に何かするだけ」の場合に有効だ。商品と顧客層が決まっていて、必死で営業して何度も通って営業担当者が数字を競い合うビジネスなら人参をぶら下げた成果主義は合っているかも知れない。でも答えが明確ではない、短期的目的と長期的目的との最適化を図らないといけない、技術と営業の両面からアプローチしなければならない、中長期的なトレンドを踏まえなければならない、買ったり負けたりする中で安定的な成長を達成しなければならないというような複雑な方程式を解くためには、個人ベースの成果主義はうまく機能しない。
当社の場合は技術担当者と営業担当者が補完し合う、営業担当者間で協力し合う、経営企画が中長期的な課題に取り組む、それらの活動が一体として有機的に絡み合うという複雑なオペレーションが強みである。そうすると誰の手柄かなんか特定するのも面倒くさいし、実際「色々やってうまくいってる」のが現状だから、個人ベースの成果も計りようがない。
全く違う話しになるが、学校の内申書も同じ意味で僕はあまり信じていない。学校の内申書を重視出来るのは、学校で習うことで大体人生やっていける時代だけである。学校で習うことで人生やっていけるなら、つまり真面目に学校で勉強してせいぜい成績を上げることが実際にためになる。でも今の時代の様に不透明で答えがない時代においては、学校が決めたルール=学校の成績=内申書が良いからと言ってあまり意味がない。だから内申書=ルールが決まっていて後はその枠の中で良い成績を取るだけという成果主義は、ルールが決まっていない、答えが明らかでない、複雑な世の中で生きていくには不十分であるばかりか、「成績が良ければそれで良い」と勘違いさせるという意味でミスリーディングでさえある。それよりも学校が言わないといけないのは、学校の勉強は本当に最低限のことであって、「これだけでは全然生きていくのにはふじゅうぶです、これ以上は自分でしっかり考えてください」くらいのことだと思う。
「これさえ勉強していれば大丈夫」とか、「個人成績に応じて人参をぶら下げていれば大丈夫」とか言うのは直線的に社会が発展している時にしか通用しないことだ。だから当社は成果主義を採用していない、日々直面している問題、チャンスが複雑過ぎるから。