社長ブログ

社長フィロソフィー日記

本気の練習

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最近中学校のジュニアや高校生の水球の練習を見ることが多い。水球は超ニッチスポーツだけどそれだけに、僕でもサポート出来ることは多いし、何よりやっている人たちが(保護者、OBも含めて)必死で頑張っている。
で有力高校を卒業した若手OBが練習につき合ってくれているのを見ていて思ったのだが、彼らは現役よりもずっと実力が上だから、「指導的観点」からちょっと手を抜いて余裕のプレーをしてしまう。シュートを打てるタイミングで打ってしまうと、他の人にボールを回すことなくすぐに入ってしまう。それだと練習にならないから敢えて他の人にボールを回して、いわゆるフォーメーションなどの練習にする訳だ。
しかし僕が思うにそれは正しくない。練習のための練習であればそれでもいいのだが、練習は試合のためにやるものだ。能力の高い選手だとこの距離からこのタイミングで打たれて入るということを、実力派OBであればその実力を見せつけて欲しいと思う。試合で活躍しようと思えば、練習の時に如何に試合をシュミレート出来るかが重要となる。試合と同じ必死さで泳ぎ、ディフェンスは真剣にシュートを打たせまいとし、オフェンスはそれをかいくぐって全力でシュートするという練習でないと、練習での予定調和的なプレーでは全く試合では通用しない。
仕事でも同じだと思う。会議でなあなあの議論で分かった様な分かっていない様なことだと、結局顧客には説明も出来ず通用しない。社内では気不味くなるから多少商品設計が甘くても詰め切ることがないことで良いかもしれないが、結局売れなければ何の意味もない。それは世の中に通用するか、顧客は本当に魅力を感じて買ってくれるのか、皆が喜ぶスキームになっているのか、少なくとも社内では妥協なく詰めておかないと本番では話しにならないと思う。
本気でやる練習、これをやり切るのは難しいことだけど、甘い様でぴりっとした雰囲気でプロの仕事をして貰うのが経営者の役割だと思うし、自律的にそれが出来るのがプロのビジネスマンだと思う。

公人と私人

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今日面白い人の話しを聞いた。超が付くほどのエリートの研究者で、自分の息子の結婚相手との家族との顔合わせ会にも、よろしくお願いしますの挨拶が終わるや否や、待たせている車に乗って次の会議に出て行ってしまったり、その息子の結婚式でも最後までおれずに最後のお礼の挨拶に父親はいなかったり、なんせ仕事中心で家族のことがぽっかり穴が空いている人がいるとのことだった。今日は東京、明日はニューヨークで学会や会議があったり、24時間仕事のことばかり考えているようだ。
全然別の話しだけど、最近ネットでニュースを見ていたら、学校の先生が入学式を欠席して、自分の子どもの入学式出席を優先したことに対して教育委員会などが批判し、このことがちょっとした賛否両論が巻き上がっているらしい。先生である前に子どもの親、きちんと休暇届を出してプライベートの予定を入れたことに対して何が悪いのか、先生としての常識がないという教育委員会の考えがが古くて間違っているという論調がネットでは優っている感じだった。
前者は仕事を優先にする例、後者は家族を優先する例だが、公と私を考える意味でとても面白いと思う。もちろん公と私の部分は程度の問題ではあるけれど、他人や社会に影響を与える仕事をしている人ほど「公人」の要素が大きく、その責任も重いのは事実だと思う。冒頭の研究者を「人間味のない、仕事中毒の人間」と言うのは簡単だけど、それほどに仕事に打ち込んでいるというのは、ある意味「私心がない人」とも言えると思う。名誉やお金のため、つまり私欲のために家族を見捨てて飛び回っているなら問題だけど、もしかしたらその人は人類に対して非常に重要な研究を行っていて、今の自分の24時間、全能力をそれに使うことが、神様から授かった使命だと感じているのかもしれない。自分の子どものために費やす時間は最小限になるかも知れないけれど、成人した子どもに対してしてやらないといけないことと、社会に対して限りある命の中でやらねばならない使命を考えると、私心を捨てて公人として振る舞うことを選ぶことも僕は十分理解出来るし、その研究者のことはむしろ誠実でいい人なんじゃないかな好印象を感じた。
後者の先生は、自分の生徒に対する責任よりも私心、自分の家族のことを選んでいるのだから、家族思いとも言えるし、先生という公人としては微妙なラインだとも思う。これが会社員だと組織で動いているからフォローして貰えて問題はないし、自分が経営するお店を臨時休業にするのも「私」のなかでやっている優先順位の問題だから全然OKだ。だけど先生はやっぱり公人の面が強い職業だし、敢えて言うなら「家族を大事にする」という価値を身を以て生徒に教えたかったという教育の一環であればそれもありだろうとは思う。おそらく先生をはじめ、政治家、経営者などは、公の部分が大きいことを理解した上で自分で敢えて選ぶ種類の職業だと思う。
私心なく使命を果たす、というのは、時には不便も伴うし、家族に負担をかけることもある。どこまで自分は公人かを意識しないと、ずるずると私欲にまみれたり果たすべき責任を果たせなかったりする。それは良い悪いというよりチョイスの問題であるし、自分の選んだ役割について、公と私の折り合いをつけながら誠実に一生懸命生きていくのが人間の姿だなと思いました。

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