社長ブログ

社長フィロソフィー日記

シドニーマラソン

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マラソン大会には相変わらず参加していて、これで始めてもう12年、回数的にも25回目位(多分)になってしまった。継続は力なりと言うけれど、確かに練習量は少しずつ減っているものの(良くない)、タイム的には4時間(練習結構した時)から4時間40分(練習不足の時)位の間に入っている。
この前の日曜日もシドニーマラソンに参加してきた。オーストラリアでのマラソンは、2016年のゴールドコースト、昨年の同じシドニーに続いて3回目である。オーストラリアは時差が1時間しかなくて、気候は気持ち良い、景色は綺麗、食べ物美味しい(クラフトビールやワインも美味しい)ということで、極めて快適だ。9月のマラソンは、日本の夏はとても練習できる環境でないので(というか、じっとしててもバテる)、あまり練習出来ずに参加となってしまう。体重もそれ程減らず、そう言えば昨年も死にかけたなあと思い出しながらも、あまり改善できなかった。
レースそのものは、意外にもハーフまでは好調でちょうど2時間、まあそろそろ脚が終わるだろうなと思っていた25キロでばったり死にそうになって失速、それでもまだ10キロ以上あるなと思いながら、歩いたり走ったり、時にはベンチに寝転がって休憩するという、なんとも意外でも何でもない結果でした(タイムは4時間35分)。
次は12月の恒例となった那覇マラソン。今回が12回目となる。僕のGarminに残っている過去9年の記録によると、年、結果タイム、9月10月11月の練習距離は以下の様になっている。

2018年 4時間12分(9月84キロ、10月156キロ、11月122キロ)
2017年 4時間18分(9月82キロ、10月132キロ、11月148キロ)
2016年 4時間36分(9月71キロ、10月150キロ、11月131キロ)
2015年 4時間15分(9月140キロ、10月166キロ、11月135キロ)
2014年 3時間59分(9月156キロ、10月142キロ、11月149キロ)
2013年 4時間32分(9月154キロ、10月201キロ、11月120キロ)
2012年 4時間6分(9月138キロ、10月171キロ、11月188キロ)
2011年 4時間29分(9月123キロ、10月187キロ、11月104キロ)
2010年 4時間43分(9月83キロ、10月225キロ、11月106キロ) 
これを見るとあまり走行距離との相関関係はなくて(2016年は28度の猛暑で例外)、「10月・11月に月150キロ走る+体重を2、3キロ減らす=4時間ちょっとで完走」という「キロ6分の勝ちパターン」が見えてきた。これから海外出張やセミナーなどで忙しくなるが、月150キロは週30キロ強、つまり平日に8キロ2回、週末に10キロと8キロで達成可能な練習量だ。体重もこれから月1キロ減らしていけば良い。こうやってブレークダウンしていくと、今年のゴールシーンが「カラーで見えてくる」から不思議なものだ。もう出来たような気持ちになってくる。
本当は、タイムよりも健康でスタート地点に立つことの喜びの方が大きい。今年も感謝しながら、準備をしていきたいと思います(社員の皆んなもな)。

トータルで責任を負う

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最近(ここ数年)よく思うのは、会社も社員(個人も)、業績や自分の人生については、自らがトータルに責任を持たないといけないということだ。
まず、会社が業績について責任を持たなければいけないことは当然として、社員に対しても報酬以外の面でも責任を負うべきだと思う。社員の健康、家族の幸せ、やりがい、そしてその会社で働いて良かったと思える満足感、それらは(もちろん社員の頑張りもあるけれど)、トータルで会社は個人に対して責任を持つものだと覚悟している。
業績をあげて原資を稼ぎ、生活に必要な報酬を支給し、その上で社員のやりがいや健康にも責任を持つ。当社では後者については「好きな仕事」を仕組み化して収益の出る「変換装置」を考え、半年に一回マラソンに(僕も)参加して(尋常でない)体力作りに励む。どちらもなかなか大変だけど、経営者も社員も同じ人間だから、何かのために何かを犠牲にする仕組みはどこかおかしいし、長くは続かないと思っている。
逆に社員も会社(=公)に対して責任を負う。裏返しの話になるのだけど、「好きなこと」を活かして仕事をして、健康面も家族などのプライベートの面でも会社に支えられている面があるのなら、公私の区別なく、惜しみなく精一杯働き、組織(=みんな)のため社会のため貢献しなければならない。
会社という(ある意味バーチャルな)組織は個人のために、個人は組織(=みんな)のために頑張るというのが、現代の組織、集団のあり方なのではないかなと思う。
簡単な言葉で説明するのは難しいけれど、「会社は個人の集まり、個人は会社によって支えられている」(逆に、「会社は個人によって支えられている、個人は会社の一部」)というのが理想なのではないか。善かれ悪しかれ、働く人は起きている時間の大部分は会社で過ごしているわけだし、そこを「公私」で分けるには無理あるというのが僕の見解だ。
従って?当社には階級も上下関係もない。同じ立場の人間が集まって、力を合わせて社会のためになるように頑張っているというシンプルな構造だ。決まった上下はなくとも、実力差はあるし専門性もある。そこは「自然と」適材適所に収まっていくというのが、これまた「正しい人事政策」でないかと思います。
なんだか取り留めないですが、最近ブログの更新が少なかったので、頭に浮かんだことをつらつらと。

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