社長ブログ

社長フィロソフィー日記

世界で通用する力

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サッカーの日本代表が発表されたが、外れたフォワードの大久保が文句を言っていたらしい。確かに大久保はJリーグでは結果を残している。得点王の常連だし、このところ熟練味も増して活躍しているのは確かだ。

しかし世界の強豪を相手に戦う代表選は全く事情が異なる。海外組偏重という批判は、世界のサッカーと日本のそれとのレベル差を無視した議論だ。球際が弱いとされる日本では通用しても、体格的にも強力な相手には全く通用しないということがあり得る。ある程度フリーの状態では針の穴を通す素晴らしいパスが出来ても、身体を寄せられながら高速でドリブルしている時に同じことができるとは限らない(普通は出来ない)。国内で活躍している選手が海外チームから破格の条件で勧誘されないのは、それなりの(日本でしか通用しないという)理由があるのだと思う。

世界の強豪を相手に戦うのだから、日頃からそれらの選手に揉まれて鍛えられている選手を選ぶのは当然だと思う。逆に言うと、日頃からどのレベルで試合をしているか、レベルの高い本番と同じような現場をどれだけ踏んでいるかが大事だということだ。 練習一つとっても、練習だからといって緊迫した試合ではありえない様な練習場面を設定しても役に立たない。練習だからこそ、本番よりも過酷な条件で取り組むことが大事で、だから鍛えられる=練習、なのだと思う。

これは仕事も同じ。仕事は常に本番なのだけど、本番で通用しない活動をしていても意味はない。売る商品を開発するのにとても売れそうにない商品の実験をしたり、とても顧客に受け入れられない、広まらない様なサービスを考えていたり、結果が出なさそうな「筋の悪い」ことをしていてはダメだと思う。 

当社は常に本番、ここ一番の試合を想定して仕事をしていきたいと思う。二軍で活躍していても意味がない、世界を相手に通用するプロでありたいと思います。 

大局観

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昨日は将棋の羽生の本、一昨日は数学関連(!)のエッセイを読んだのだが、いずれも「大局観、全体像が分かっているかどうか」の程度が大事だと言う。将棋の世界ではコンピューターの発達により、人間VSコンピューター的な話題がある。コンピューターは「如何に多くの手を速く読むか」ということが強みに対して、人間は「如何に読まないか」、つまり大局観を持って如何に少ない選択肢を瞬時に思いつけるかということが強みだということだ。

数学の世界でも同じような話があって、数学の苦手な子供は図形でも数式でも、部分部分でしか考えれらない。複雑に絡み合っていたり表現の仕方が変わっていると、たちまち「わからない」ということになってしまう。大局観のある子供の発想は、これは前にやったことのある何かと似ている感じがする、この問題とこの問題は形は全然違うけれど、同じことを角度を変えて言っているのに過ぎないとか、数学で覚えなければいけないのはたかだか数十個の公理であって、どんな問題でも詰まるところはこれらの組み合わせや表現を変えたものに過ぎないとかいう様に考えるらしい。

でまた将棋の話に戻って、では将棋の神様がいるとしてその知識を100とすれば、自分たちはどれくらい「分かっているのか」ということをプロ同士が話したらしい。一人の名人は「5」と言い、もう一人は「いやいや4くらいだろう」と答えた。長年名人と言われて将棋に一生をかけている人たちでも、たかだか4や5くらいしか分かっていないと自覚しているからこそ、奥深くていくらやっても飽きることがないのだろう。

(いつもの)水球でもゲームの中で全体像が見えるか見えないかで「分かっている、分かってない選手」と言われる。瞬時の全員の位置関係や動きがわかり、そしてゲームを通しての展開まで見渡せればとても「分かっている選手」である。

そして経営も同じで、経営の神様がいたとしたら、まだまだ1か2くらいしか分かってない。いや0.1くらいかも知れない。存命の人で経営の神様的な人はいるけれど(稲盛さんとか)それでもどこまで分かっているかというのは凡人の100倍、すなわち10くらいのものじゃないかと思う。 四六時中経営のことを考えている経営者にしてこうだから、社員が部分のことだけ、自分の仕事だけ、今日の仕事だけ、目の前に積まれた業務だけ考えていたら、仕事についても経営についても、社会についても世界についても、「分かる」様になるはずはないし、全体像を思い浮かべて自分の仕事の意義を考えることがあるはずもない。

当社は「全体像」を考えていきたいと思う。社会において会社の置かれた位置や役割、この時代に存在する意味、どう社会に貢献できるのかなど、大局観を持って日々の仕事に励みたいと思います。 

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