社長ブログ

社長フィロソフィー日記

日本の生産性が上がらない理由

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先日海外から帰国した際、日本のデジタル化は進まない理由の一端を見た気がした。
ワクチン接種記録や、帰国前に受けたPCR検査の陰性結果はすべて事前に指定されたアプリ(MySoS)で登録してある。他国であれば、事前申告に依って入国手続きは普通にスムーズに行われる(そのための事前登録)。最近行ったシンガポールでもフィンランドでもスペインではそうだった。
一方、日本に帰国時には、飛行機が空港に到着すると、長々とターミナルの端から端までたっぷり数百メートル歩かされた。最後の50メーター地点からは数十人の人たちが列をなし、まるでマラソンの最終地点のように「アプリの画面を開いてください」と声を掛けてくれる。で、歩いた挙句の目的地で何をしたかと言うと、アプリに表示されたQRコードを読んでもらう、それだけである。そしてまたUターンをして数百メートル歩いて入国検査へ向かう。
単にQRコードを読むためだけに長々と歩かされて、そこに意味の分からない数十人もの人がいる非効率性を誰も疑う事はしない。普通に考えれば事前登録してるんだから、自動的に入国審査でデータが確認されるのが普通だと思う。デジタルデータとなっていてアプリまで用意しているのに、物理的に歩いてQRコードを読み取ってもらわないといけないと言う工程が入るところに、日本の弱さがあると思う。
古いものを使い続ける、効率の悪いやり方に固執する、それを真面目な国民性で補おうとする。自分の頭で考えられない、非効率だとわかっていても変えることができない、変えようと言い出すと必ず反対する人がいる。その結果競争に負けても、我慢強い国民性で「効率や経済だけが人生にとって重要ではない」と言い出す。こういうメンタリティーが、日本の生産性が改善していかない理由だと思う。
それに加えて、成功しても褒められない、失敗したら犯罪者の様に扱われる風潮もこれに拍車を掛ける。何かに100回挑戦して、99回上手くやっても、たった1回失敗したらそのことを責められる。なぜ失敗したのか、どうしたら防げるのか、そもそも無謀ではないかという議論はなされるけれど、99回成功したことの成果は評価されにくい。成功して当たり前、稀に失敗したらとことん詰められるという文化の中では、成長は難しいと思う。失敗したらその原因が分析され(そりゃ何か足らなかったのだろう)、次から失敗しないように準備することが増え、書類が増え、手続きが増えることになる。その結果、そもそも機を逃して、挑戦が意味のないことになることも多い。挑戦しなければ失敗もないのだが、それは本末転倒というべきものだと思う。
当社は決して、お役所的な意味のないリスクヘッジの様なことだけはしたくない。あれこれ言い訳を考えておけば失敗した時には役に立つだろうけど、そもそもどうしてそのことに挑戦するのか、成功するためにはどうすれば良いのかを考える方が生産的だ。そうすれば失敗も稀にするだろうが、より成功してトータルでプラスならそれで良いではないかと思う。

スポーツの結果をどう捉えるか

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ウィンターオリンピックが開幕して、悲喜こもごもなドラマが繰り広げられている。審判の問題、もしくは風向きなどの自然現象、今日は羽生選手はリンクの穴に足を取られてしまった。
4年間、いや競技を始めた子供の時から厳しい練習を積んできた結果が、ほんの少しのアンラッキーで報われないものになる。その一方では(ラッキーな)勝者もいる訳だが、人間の一生を左右するイベントが少しの偶然に大きく影響される。
だからこそスポーツから得られる教訓は大きいとも言える。努力は必ずしも報われるか分からない。このことを劇的な形で本人、そして周りの人に教えるのがスポーツだ。しかし努力したその事実が、(大会では結果が出なかったとしても)その後の一生に必ず良い影響を与える。すぐに良い結果は出ないかも知れないが、10年20年のタームで見た時には、必ず良い結果が出る。
そして何より、結果が出なかったとしてもそれは自分の中の出来事であって、誰に対しても責任を感じなくても良いと言うことだ。これまで支えてくれた恩師、スポンサー、関係者、保護者、いろんな人々がその選手の周りにはいるけれど、それらの人は結果を求めて応援していた訳ではなく、その選手を活躍を(結果の如何に関わらず)支えようとしていただけだ。
オリンピックや大きな大会の結果は、選手はもちろん、誰も左右することは出来ない。結果を保証することも出来ない。そういう、不確かな未来に対して、選手本人、周りのサポーターの皆が夢見ながら努力すること自体に価値がある。
これは企業活動も同じ。結果が良いか悪いかは結果論。悪かったからといって誰かを責めることは良くない。そして結果が良かったら、それこそ手放しで褒め合う、喜び合うと言うのが正しい姿ではないかと思う。

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